徳島市東部タウンマップは街の最新ニュースを中心に記事にしています。
でも、それらは最近のアーカイブ。
ずっと昔からの歴史は風化が進んでいっています。
そんな、歴史を留めているものを見つけました。
それは、形はなく、色はなく、匂いもなく、それでいて受け継がれていく物。
「唄・詩・歌」
タイトル通り、城東中学校校歌にこの街の歴史を見つける事ができました!!
城東中学校の校歌。
今は「渭山」という言葉も聞く事はありませんが、、、
さすがに渭山という言葉を日常語として聞く事はありません。
※渭山とは城山の事です。
詳しくは、城東高校の同窓会の解説にお任せします。
城東渭山同窓会による解説
(住吉の事は昔、住吉島と呼ばれていました。筆者が懇意にしているご年配のマンションオーナーさんは持ち物件が住吉にあるんですが、それを住吉島の物件と呼んでいます。)
こちらが、城東中学校校歌全文です。
徳島市立城東中学校 校歌
作詞/保科千代次
作曲/今川幹夫
風かおる渭山の東
工芸の高きほまれを
受け継ぎて若き世代にかざしゆく自主の学園
見よ 光は東より
ああ 黎明の城東中学
沖洲の松原はるか
うちよする世界の潮
永遠の真理をおいて若人の命はきそう
見よ 光は東より
ああ 黎明の城東中学
緑なす窓にあふれて
平和なる町のコーラス
高らかに君ようたわん協同の誓もかたく
見よ 光は東より
ああ 黎明の城東中学
【校歌を聞く】城東中学校 公式サイトの音楽ファイルにリンクしています。
https://e-school.e-tokushima.or.jp/tokushima/jh/joto/html/htdocs/?action=common_download_main&upload_id=310
(工芸の高きほまれを)
昔は、安宅と末広付近は大工島と呼ばれていました。
徳島藩の船大工の屋敷が多数あった事からそう呼ばれていたそうです。
以下引用 書籍 渭東をめぐる~歴史をひもときながら 著渭東地区文化保勝会より
徳島藩の水軍の基地である安宅と沖洲に隣接し藩の造船作業に関わる船大工の屋敷が並んでいた事から大工島と呼ばれた。当地に船大工がおかかれたのは寛永(1624~1643)の後期、安宅に藩の船置き場が移されて以降であろう。
天和3年(1963)の渭津城下絵図には、安宅の水主(加子)屋敷南方に船大工屋敷が描かれている。
造船や修繕は御船役場で行われ船大工とは別に船具に使われる金物などは、藩の鍛冶蔵で鋳造された。天保元年(1830)には御船や船を格納する御船屋の修繕などを担当した。船大工は約二百人ほどで、みな大工島と築地の定められた場所に居住した。
安宅の作業場では火の用心のため、月三回、木くずを整理して従業者に払い下げた。
ことのき船大工たちは、木くずの中に木切れも入れて持ち帰ることを、「日こぼし」といって黙認された。
これを材料として、ちり取り・炭取り・もろぶた・まないたなど、「安宅物」と呼ばれた日用品を作って売った。
船大工は明治になって藩からの扶養が無くなると、今まで作っていた日曜用具や大工の技術を活用してタンス・針箱などの家具、雨戸、水車や唐箕などの農具、桐下駄などの履物の制作を本業とするようになった。これが地場産業である渭東木工業の起源とされ、大和町には鏡台・家具などの工場が軒を並べ、その中心地として活況を呈していた。
(沖洲の松原はるか うちよする世界の潮)
海の街、沖洲を表現しています。
松原というのは、沖洲の松林の事を指していると思えるのですが、こちらは詳しい資料を見つける事は出来ませんでした。
今も公園には松の巨木が鎮座しています。
【工芸の街・木工会館移転】
徳島市東部に木工会館という施設があり、移転の為に閉館となりました。
徳島駅前に移転します(多分・・・)。
これも、時代の変容だと思います。
末広・福島には仏壇、家具などの多数の木工工場がありましたが、今はその多くが移転や廃業しました。
それでも!!
この街が木工の街であった事はこれかも歌い継がれる校歌や史跡に残っていくと思います。
この街を心から好きだからこそ、木工会館が移転し新たな「今」の街が始まっていけばいいなと思います。
先人たちの軌跡は残るし、時代は変わるから。
(四所神社の船だんじり)